○○ケータイ学 第四部 大いなる遺産〜


2008.3.26

人間は主体的に歴史なんか作っていなかった。
それどころか、ただ目に見えない構造の中で生かされてる存在に過ぎなかった。

「携帯は滅んでPHSが生き残る」世界もあるし、「PHSが滅んで携帯が生き残る」世界もある。

そのどちら側に自分が落ちるのかは、誰にも分らない。

ネットの上に引っかかったボールがどっちのコートに落ちるのかが分らないのと同じように。

(15巻、なかなか出ないなあ・・・・あ、いやこっちの話。)

神のみぞ知るってヤツです。

・・・・・じゃあ今度はその「神」ってのを考えてみますかね。

啓蒙主義

4部に渡って「携帯とPHSの世界」を見てきたのですから、ここでというのは、やはり「キャリア」が妥当でしょう(笑)

神が基本料千円!と言えば、人間は毎月千円払ってしまいます。
神が基本料一万円!と言えば、人間は毎月一万円払ってしまうのです。

電電公社の時代はまさにそうでしたし、携帯電話黎明期もそうでした。

しかし・・・そこに通信革命、IT革命、モバイル革命が起きました。

NTT以外にもキャリアが生まれました。
携帯電話だけでなく、PHSという規格も生まれました。

するとどうなるか。

人間は考えるようになったのです。

ドコモは高いからセルラーに変えよう。
オシャレだからJ-PHONEに変えよう。
安いからPHSに変えよう。
今月の無料通話分はあと20分しか残ってないから、電話は控えよう。

このように合理的に考えて理性を使って生きるべきだ。
人間はそうする権利がある。
こんな考えかたを啓蒙主義と言ったりします。

こうなると神と人間の関係は微妙になります。

絶対的な神=通信キャリアからの独立
やがては「人間には神に代わってこの世界(モバイル)を良くする義務と権利があるッ!」という考えにまで発展します。

これは市場経済における消費者の立ち位置で捉えられますし、
古くは宗教改革以降の啓蒙された人間という捉え方もできます。

人間学の誕生

となると、「じゃあその人間は世界のことがどこまで分るの?」っていう問いかけが生まれます。
そりゃそうです。
「神からの独立」だの「神に代わって世界を良くする」だの、何様だ!ってことです。

でも大丈夫。ビビる必要はありません。
「人間様だ!」って答えてやりましょう。
相手は神です。気合い負けしたら終わりですよ。(そういうものか?←神の声)

「世界のことは良く分かっていますよ?分かっているところは分かっていますが、何か?」

「分らないことは分かりませんよ?だって分らないんだから。文句ある?」

「分るところしか分らないし、分らないところは分らないということが分かっている。無問題w」

これくらい傲慢にいきましょう。

分かっているところは分かっているというのは、人間が認識したり経験できる範囲ってことです。
手元に端末があり、目の前には基地局が立っている。
これを現象といいます。

これを超える世界は分らない。分りようがない。
手元の携帯の中身がどうなっているかは分らないし分解念写ゲフンゴフン
目の前の基地局の中がどうなっているかは分らないし、ましてやCS-IDが何番かも分からない。HTTP_X_CSqwe;dffujiko
この理性の限界を認めることで、逆に理性の内側の部分に正当性を持たせるという作戦なのです。


理性と道徳

うーむ、自分で書いていて、ホントに「人間っていいな」って思ってしまった。
だってこんな理屈が通用したら無敵ですよ?

「新規0円で買いまくって片っぱしから即解約♪白ロムはヤ○オクか中○で売ってボロ儲け♪
え?キャリアがインセンティブの関係で困る?そんなの分らないから知りません♪」

「自分の名前を相手に通知するタテマエでメッセージ送っちゃえ♪相手が出る前に切れば通話料はかからないしメッセージは残る♪
え?キャリアのインフラを圧迫する?ボクが分るのは目の前の端末と言う現象だけでーすw」

いいジャンこれ!
あ違う、良くない良くない(汗)うんダメ。ダメだよダメダメ。

こうなると、やはり神様は必要だな。
ユーザーを啓蒙することを目的とする電波の杜ホントか?としては、こういう輩が出てこないように神=キャリアは必要だと思うのですよ。ゲフゴフン。

進歩的な考え方の一つに「“キャリア”という偉そうな表現は良くない」というのがあるようですが、今書いたような事情で、「あえてキャリアという表現を使う」という手法はアリだと思います。

良く分らずに神を恐れ敬うのではなく、理性のもとに神を要請する、という訳です。

ドイツ観念論?

さて・・・・少しテンションが下がってきました。
結局答えは出たんでしょうか?
人間は本当に神から独立して世界を理解できるようになったんでしょうか?

分らないところは「理性の限界」と開き直る。
必要なときだけ神様を要請する。

なんか妥協っぽいですね。

いや現象を認識したり、理性を考察したりと、一定の進歩はあったとは思いますが・・・・。

やはり「人間を中心とした見方」の外側にあるものを直視しないと、本当の答えじゃない気がします。

でもなあ・・・人間が人間じゃない世界を理解するって、それ自体矛盾だよなあ・・・。

理解できたとしたら、それはその時点で人間側の世界ってことです。
それじゃあ「人間じゃない世界」を理解したことにはなりません。

人間が理解できなかったら、それは「人間じゃない世界」のものですが、理解できないんだから理解できません。(理屈っぽい文章だ)

人間が関わっていながら、人間を超えた世界でないといけない訳です。

どないせいっちゅうんじゃ!

・・・・・ぴこーん!(啓蒙の光)

そういえば「○○ケータイ学 第二部 その誇り高き血統〜」でこんなことを書いていませんでしたっけ?

このように異なる意見や立場がぶつかり合って、二転三転しながら携帯とPHSの歴史が進みます。

異なる意見や立場がぶつかり合って思考が進行することを弁証法といいます。
つまり歴史とは弁証法的に流れてゆくものなのです!!

それぞれの人間が意見をぶつけ合いながら歴史が進む。
それは進歩。
それは前進。

ひとりひとりの人間は「それ」を認識できない。
ということは、この弁証法的な歴史の行く先は「人間が認識できない世界」ということにはならないだろうか?
しかし人間が関わり合いながら進んだ歴史なんだから、「人間が関わっている世界」でもある!

「人間の理性の外側の世界」はひとりひとりの人間には理解できないけれど、
「その人間達の集合=人類」には理解できるんだ!


Komm,susser Tod。

なんかもうBGMは「甘き死よ、来たれ」って感じです。

ハッピーエンドが見えてきたようです。

再び「人間」が勢いを取り戻しました。

あれ?でも「○○ケータイ学 第二部 その誇り高き血統〜」では結局、弁証法は論破されたんじゃなかったっけ?(汗)

なんか同じところをぐるぐる回ってる?
でも着実に進んでいるような気もする。

あのとき弁証法は歴史の現実の前に敗北しました。

ということは、もうちょっと歴史をつっついてみると、何か進展がありそうです。


次回「○○ケータイ学 第五部 黄金なる遺産〜」(結局ジョジョネタじゃん)

ドイツ観念論チックにいいところまでたどり着いた人間。
じゃあ理屈はひとまず棚上げして、もうちょっと「その後の歴史」を見てみようじゃありませんか。

今回答えは出なかったけど、どういうわけだか前回のような絶望感はありません。

「人間」が勝つか、「人間でないもの」が勝つか。

まさにジョジョのテーマのようになってきました。

「○○ケータイ学 第四部 大いなる遺産〜」
「○○ケータイ学 第三部 未来への遺産〜」
「○○ケータイ学 第二部 その誇り高き血統〜」
「○○ケータイ学 第一部 その青春〜」