インターネットにおけるビジネスモデルの一考察



うわ凄い、まるで学生時代にデッチ上げたレポートみたいなタイトルだ。
こうやってそれっぽいタイトルで引きつけておきながら、ほんのちょっとだけ内容にヒネリを入れることで独自性を出して姑息に単位をア、ウソウソ教授、ウソですったら(汗


WEB2.0へ・・・

そんなれさくの貧しい大学時代。
貧しいから大学のPCで無料でインターネットしてました。
貧しいからジオシティーズで無料でホームページを作りました。
そう、今の電波の杜があるのもれさくが貧乏だったからこそです。
ありがとう貧乏!

さて、そんな無料のホームページサービスですから、広告バナーが付いてしまいます。
これは仕方ありません。
れさくが夜勤までのヒマ潰しに、そんな広告バナーをボーッと見ていて考えました。(栄養不足で朦朧)

例えば「我が家のペット自慢」なんてサイトに「自動車の広告バナー」があるよりも、「ペット用品の広告バナー」があった方がよいのではないだろうか。

ペットに興味があって来訪する人なんだから、自動車よりもペット用品のバナーをクリックする確率のほうが高いはず。
サイトをやっている人も、どうせバナーが強制的に出るのなら、少しでも自分のテーマに近いものの方が良いはず。
で、クリック率が高ければ広告主もハッピー。
ということは広告費が入るジオもハッピー。

あら、みんながハッピーになれる方法発見。
どうしよう、特許登録しようかな?

そこでさらに調子に乗って妄想してみました。

「広告」ってどうしても「企業」っていうイメージが強い。
別に企業が悪い訳ではないのに、なぜか「悪いイメージ」が先に立ってしまう。
じゃあその「広告そのもの」もサイトをやっている人に作らせたらどうだろう?

ペットのホームページを作っている人は、それだけ思い入れが深い。
企業目線じゃ気付かない切り口で広告ページを作ってくれるかもしれない。

しかもホームページを作れるくらいだから、そのようなページを作るのもラクラクだ。
そんな消費者目線で作られた広告ページだから、来訪者も抵抗感無くアクセス。

で、そのクリック数や商品購入数に応じて、広告主はジオにではなくサイトをやっている人にお小遣いを渡す。

あ!ヤッベ!おいら天才?・・・・・・・・・・・・なーんてね、ハハ・・・ハ・・・(涙)←ここが成功する人との分かれ道だよ

さて、そんな妄想も終えて、あっさりと答えは出ました。

「そんな広告だらけのサイトなんて嫌だ」



好きで作ったホームページなのに広告だらけ。
テーマに連動して広告が出るから、広告テーマにあったサイトを作るという本末転倒。
楽しげに書かれているペットの文章や写真も、実は特定の商品へ誘導するために計算ずくで作られたものだった・・・・

そんなの嫌だ。
みんな嫌に違いない。
っていうかそんな大掛かりな広告連動のシステム、この広いインターネット上に誰がどうやって作るんだよ。
できっこない。




そんな「できっこない」システムは、今日見事に構築されました。
アフィリエイトが定着し、サイトでお小遣い稼ぎは当たり前になりました。
サイトはどんどん広告バナーだらけになっています。

そしてGoogleにより、広告連動のシステムは完成した感があります。
GoogleAdwaresで素人のサイトも企業サイトも、どんどん広告を出せるようになりました。
さらにGoogle検索自体が広告と連動し、表示されるサイトも広告目当てにSEO対策が施されたものばかり・・・

昔は検索してすぐに探していた情報を見つけられたのに、最近は広告ばかりでなかなか探しものが見つからない・・・そんな経験、無いですか?
弱気なれさくの弱気なフォロー

・私は広告モデルを全否定するつもりはありません。電波の杜にもジオのバナーが付いてますし。現代の「ここまで徹底した」広告モデルのインターネットが嫌なだけです。

・私には預かり知らない世界ですが、大規模サイトを運営するとなると膨大な維持費がかかると思います。ましてそれを「趣味」でやっているのであれば、サーバー代くらい広告で稼いでね、という暖かい気持ちで一杯です。

・「オレは広告サイトでしか食っていかない!」というのはむしろアリだと思います。本業からの収入がありながら、広告サイトで中途半端なお小遣い稼ぎをするのは、かえって「時間と労力がもったいない」と思います。

・ホントは学生時代の妄想が実現されちゃって悔しいんでしょ?→悔しくはありませんが、もったいないとは思います(笑

・私は「しない」と「できない」を区別しないと気がすまない性格です。「広告モデルをやらない」ならカッコイイですが、「広告モデルができない」のはカッコワルイと思います。
なので結局後輩から全面的に引き取った「トマソンモバイル」は、あえてGoogleAdwaresだけは残したままにしています。どんなものなのかを知りたいのです。(さすがに携帯向けのテキストバナーは外しました。ああいうのは好きくない)

・将来電波の杜が超メジャーサイトになって「広告収入だけで月数百万!」になってもバナー付けませんか?→ゲフンゴフンッ!(汗

・っていうかこんな文章書いちゃって、後々自分の首絞めたりしない?→そんな予感はあります(汗


さて。
貧乏れさくが大学端末室で思いついたことがもう一つあります。

電波の杜を更新するためにジオへアクセスし、IDとパスワードを入れる。
なぜパスワードがあるのか?
それは知らない人が勝手にサイトをいじらないようにするためです。
当然です。

しかしれさくは思いました。
「このパスワードを全世界に公開したらどうだろう」

つまり誰でもサイトをいじって更新できてしまうのです。
例えばPHSに興味がある人は誰でもこのサイトを更新できる。
誰かが書いた記事を誰かが訂正したり補足したり。
一人の力は小さくても、同じ興味を持つ多数が集まれば成り立つ仕組み。

未来の人間は、インターネット上に知識を共有するのであった。

あれ?オイラまた大発明?特許とろうかな?

さて、そんな妄想も終えて、あっさりと答えは出ました。

「そんな信頼のおけないサイトなんて嫌だ」




皆が皆善人だったら、あるいは成り立つ仕組みかもしれません。

しかし現実はそうではありません。
ある日突然、悪意を持った人によってそのサイトがごっそりと消されてしまうかも知れません。
PHS礼賛サイトが、ある日突然アンチPHSサイトに書き換えられてしまうかもしれません。
あるいは善意であっても、間違った記事をアップしてしまうかもしれません。

それに同じ興味を持っていても、ある人は専門家だったり、ある人はド素人だったりします。
レベルにばらつきがあります。
つまり、趣味程度のサイトを仲良く共有する仕組みとしてはあり得ても、高度な専門サイトには向かない仕組みです。

無理無理、できっこない。
性善説なんで妄想だ。




そんな「できっこない」システムは、今日見事に構築されました。
インターネット上にみんなで知識を持ち寄り「フリーの辞書」を作るプロジェクト「WiKi」をはじめ、同様のシステムは多数存在します。
誰かが書いた記事が即座に自分のサイト上に反映される「RSS」や、誰がどの記事に興味を持ってリンクしているかを反映させる「トラックバック」。
「ブログ」でよく見られますね。

こうなると「ひとつのサイトを皆で作る」という概念を超えて、「インターネット上で“さまざまな仕組み”を共有し、協力し、発展させる」という広い捉え方が見えてきます。

そうすると前半で書いた「広告モデル」も、この概念に含まれてくることに気付きます。

これが今あちこちで目に付く「WEB2.0」の世界観です。(あくまでれさくなりの捉え方ですが)



WEB2.0への疑問―ブログへの疑問

「ブログ」の大流行ぶりには、いまさら触れるまでもありません。
911をきっかけにアメリカで皆が日記風に思いを記せる「ウェブログ」が由来だとか言われていますが、少なくとも日本においては、それはあまり関係なさそうです。
「手軽で誰でも作れるホームページ」という意味合いが強いと感じます。

さてここがポイントです。
「ホームページ」は昔からありました。ジオのように無料ホームページサービスもありましたし、HTMLなどが分からない人でもホームページを作れるサービスもありました。
「ブログ」はこれらと何が違うのでしょう?

それは「徹底したユーザービリティー(使い勝手)」です。
ページ構成やリンクも自動で行われるので、これらを考えたり設置したりする手間もありません。
「ホームページを作る」というプロセスを経ずに(それほど意識せずに)、まずは「すぐに日記を書き始められる」という手軽さが受けたのでしょう。

「ホームページを作る」という過程がないのですから、そのデザインはどのブログも似通っていて個性がありません。
同じ理由で、ブログにはテーマを意識したページ構成がありません。(あまり発展していません)
そのためダラダラと記事が続いている印象があります。

こう書くとブログへの批判的な捉え方ということになります。
もちろん「徹底したユーザービリティー(使い勝手)」により技術的な障壁を取り払い、今までネット上で発言できなかった多くの人にその機会を与えた点は評価されるべきです。

しかしその代償として「自分で考えてページ構成ができない」「均一デザインにより個性が出せなくなった」というデメリットが生じました。

これは重要なことだと、れさくは思うのです。

物事を考える場合、そしてそれを他人に伝える場合、どのようなプロセスを経るでしょうか。
枝葉末節ではなく、まずは大きな構成から入ります。
「それは何なのか」「何をしたいのか」「それをするにはどうしたら良いのか」・・・・・

それをもとにいくつかの構成要素(ページ)ができてくるはずです。
それらをどういう順序で並べるか?
並列に置くこともあるでしょう。直列に置くこともあるでしょう。

読む人に理解してもらうにはどうしたらよいか?
どんな関連ページを作って、どのようにリンクを結ぶか?
どのキーワードにアンカーを付けるか?

ブログはこのプロセスを全て破壊しています。

ブログには便利な機能がたくさんあります。
先ほど「キーワードへのアンカー」について触れましたが、これらを自動でやってくれる機能もあります。
あらかじめ登録したニュースサイトの記事を、自動で取り込んでリンク表示してくれるRSSという機能もあります。
自分のサイトに誰かがリンクを張った場合、それを自動的に通知してくれる「トラックバック」という機能もあります。

いずれも便利な機能ですが、サイト製作者に「考える」という余地を与えません。
その代わり人間の手作業や思考が無いのですから、早いです。
全てが時系列的に処理されます。

ここに私はWEB2.0の弱さ(「欠点」ではありません。念のため)を感じます。

この広いインターネットの世界で「1」が生まれたとします。
それがニュースサイトに取り上げられます。「1」と紹介されます。
RSSによって様々なサイトに「1」と紹介されます。
同じ「1」を取り上げたサイトが、同じ「1」を取り上げたサイトにトラックバックします。
(以下繰り返し)
・・・・・。
・・・。
・・。
これらが瞬時に行われます。早いです。便利です。
しかし「1」はいつまでたっても、どこまでいっても「1」のままです。
「1+0=1」だからです。

せっかくホームページやブログを作るのであれば、例え些細なことであっても「+1」ができるように意識したい。
そしてそれこそ、本来WEB2.0が理想としていた考えだったのでは?とも思います。
弱気なれさくの弱気なフォロー

・「1+0=1」は「WEB2.0の弱さ」を説明するための表現です。
「+α」を担ったサイトを非難する意図はありません。
「ニュースとして取り上げる」ことや「記事を即時に反映させる」ことは立派な付加価値であり、「+1」であると考えます。
ここでは、誰かがそれ以外の付加価値を付けるのも大事なんじゃないの?という意図で書かれています。

・私は「しない」と「できない」を区別しないと気がすまない性格です。「ブログをやらない」ならカッコイイですが、「ブログができない」のはカッコワルイと思います。
なので「WCMF研究会」では、自分なりに理解する「ブログの良さ」を反映させて1から作ったシステムだったりします。
作る過程を経ることで、どんなものなのかを理解したいのです。(逆に言えばこうしないと理解できない)

・「自動化よりも人間の手の温かさが大切だ云々」と主張したものが結局前者に取って代わられることは、これまでの歴史が証明しています。時代に取り残されても同じ主張を続けますか?→ゲフンゴフンッ!(汗

・っていうかこんな文章書いちゃって、後々自分の首絞めたりしない?→そんな予感はあります(汗


WEB2.0への疑問―WiKiへの疑問

キーワードは「プロか素人か」です。

インターネット上にみんなで知識を持ち寄り「フリーの辞書」を作るプロジェクト「WiKi」。
誰かが情報をアップし、それを誰かが参照し、同時に補足訂正する。
サービスを提供する側と利用する側の境がありません。
これは性善説に基づいたものです。

「中には悪意を持った人が・・・」というのが弱点のように思われますが、個人的にはこれは致命的な弱点ではないと考えます。
悪意があり得るかもしれない、ミスがあり得るかもしれないという点では、「プロのサービス」も同じだからです。

れさくは「サービスを提供する側と利用する側の境が無い」ことが、WiKiの致命的な弱点だと考えます。

これは演劇に例えることができると思います。
劇場には「役者」と「観客」が存在します。
その間には絶対に越える事のできない壁がありますし、あるべきです。

たまに「お客様との距離をなくしたい」とか
「役者と観客が一体になった感動の空間云々」
などの表現を見かけますが、そんなことはあり得ませんし、あってはいけません。

役者はプロです。
責任を持ち、サービスを提供し、お金をもらう。
そこに妥協があってはいけませんし、ましてや素人のお客が上がり込む余地などありません。

ここまで書くと、これは演劇だけでなく、全てのサービスに言えることだと気付きます。

「お客様との間に壁がある」と書くと、とても悪いイメージを感じます。
しかしこれは「サービスに対する責任」が及ぶ境目としての「壁」なのです。

WiKiにはこれがありません。
内容に誰かが責任を持っている訳ではありませんし、誰かが間違いを訂正する責任を負っている訳でもありません。
※わざと間違った記事をアップして、何時間で訂正されるかという実験が行われたことがあるそうです。
その結果「短時間で訂正されたから、WiKiは専門の辞書やサービスに劣るものではない」と結論付けられたそうですが、そういう問題ではないはずです。

プロのサービスも間違いはあり得ます。
しかしこの場合、誰かが責任を持っています。
訂正したり、改善したり、あるいは補償したり。
それはWiKiより良いとか悪いとかではなく、「そこに責任が存在する」ということが重要なのです。

WiKiで「上毛カルタ」を検索したところ、肝心のカルタの画像はありませんでした。
著作権の関係で削除されたそうです。
WiKiに関わる誰が、著作権にまで責任を持てるのでしょうか?



ケータイとWEB2.0

少し古いソースになりますが、SoftBankケータイ登場のころの記事です。
ヤフー井上社長、「携帯コンテンツも広告モデルに移行する」

ケータイ公式サイトというのは、原則として情報料収入によって成り立っています。
ユーザーが利用した着メロやムービーの情報料を通話料と合わせてキャリアが回収し、そのうち情報料をコンテンツプロバイダ(サイトを提供している会社。CP。)に渡す。
そんなビジネスモデルでした。

この記事では、ソフトバンクが率先してこのビジネスモデルを破壊しますよ、と宣言している訳です。
CPはキャリアが回収する情報料ではなく、広告モデルで生きて下さいね、ということです。

そして事実、Yahoo!ケータイポータルは一夜にして無料メニューで埋め尽くされ、公式サイトはポータルの裏側へ追いやられました。
ポータルでの順位が全てだった公式サイトは、一瞬にしてビジネスモデルを破壊された訳です。
今後は情報料収入ではなく、広告収入や広告連動などのビジネスモデルが主流になるかも知れません。

auはGoogleと連携し、auポータルサイトの検索はGoogleエンジンに変わりました。
これを「auでGoogleが使えるようになった」と単純に考えてはいけません。
それだけなら以前からできていました。

そうではなく、これはau用にカスタマイズされたGoogle検索なのです。

auポータルで検索すると、検索結果画面には上から「公式サイト枠・勝手サイト枠・PCサイト枠」の順で表示されます。
無料の勝手サイトやPCサイト(Google経由で携帯で見られるよう変換されます!)が、並んで表示されてしまうのです。
これらと差別化を図らないと、ユーザーは公式サイトを使ってくれません。

さらに、この検索はGoogle検索ですから、CPはGoogleロボットに見つけてもらえるよう、サイトの構成やキーワードに工夫する必要があります。
(いわゆるGoogle用のSEO対策が必須になります)

PCと同様にGoogle広告枠もあるので、これを利用した順位アップや露出アップを行う必要もあります。

ドコモも一気に13の検索エンジンと連動することになりました。

ケータイ公式サイトもWEB2.0の波に飲まれ始めています。



コンテンツの価値とは

さて、そうなるとどうなるのか。
それぞれの目線で考えてみたいと思います。

仮に広告収入だけでビジネスモデルが成り立つ場合・・・・

CPは情報料がなくてもやっていけます。例えばバナーを貼り付けておけば、そのクリック回数に応じて報酬が入ります。
ユーザーは情報料を払わなくてもサービスを受けられます。例えば見る気もないバナーをクリックするだけで、タダで着メロがもらえてしまいます。
キャリアは情報料回収の際の手数料収入がなくなりますが、ポータルを押さえている強みがあります。
例えばポータル上位に表示させる広告枠を用意するだけで、広告料収入が入ります。

あれ?誰も困りませんね。
むしろみんなハッピー。
じゃあこれでいいジャン。

しかしここで単純な、しかし重要な、そして根源的なことに気付いてしまいます。

ユーザーがサービスに対して直接対価を払ってない。

サービスがユーザーから直接対価を受け取っていない。

ユーザーが行ったのは「広告をクリックする」という行為です。
そしてそのベクトルは着メロサイトではなく、そこに張られたバナーに向いています。
しかしバナーの先のサイトへ本当にアクセスしたいという欲求はありません。
あるのは「ここをクリックすれば着メロがタダでもらえる」というルールだけです。

それはサービス側も同様です。
対価は提供した着メロからではなく、張ったバナーの広告主から支払われます。
あるのは「ここにバナーを張っておけば、着メロとは関係なくお金がもらえる」というルールだけです。


直接対価を受けないサービスは、サービスとして本質的な価値を持たない。


そんな気がしてきます。
それはクオリティが低いという非難めいた意味ではなく、もっと「商業」の根源的な部分から来ているという意味です。


おわりに

さて。
広告モデルからブログ、WiKi、そしてケータイ広告モデルまで長々と書いてきました。
これ書き始めたのは2006年の10月でした。途中忙しくて中断して再開したのは2007年の7月とは(涙)
インターネット、特にWEB2.0からは「全人類が財産や知識を共有する、新しい次元の世界」に進化する可能性すら感じられます。

しかし考察を進めると「インターネットはインフラにとどまるべきでは?」という疑問も生じます。

そしてその過程において「その中で市場のあるべきすがたは?」というテーマが自分の中で上がってきました。

このあたりは、もっと哲学的に、あるいは専門的に掘り下げてみたいです。
商学部卒あたりの方からご助言をお願・・・あれ?(汗